Act:00
-BEGINNING-
雨音に閉ざされたリビング。まるで深い海の底にいるかのように静かで、雨の音以外何も聞こえない。
それは気だるくて、退屈で、でもその静けさがどこか心地よい休日の昼下がり。深海魚のようにひっそりと時を過ごす。
窓の外。一面墨を流したような色の空からは冷たい雫がひっきりなしに落ちてくる。水滴がガラスを叩く音。透明な飛沫。
暖房で暖められた室内。部屋の中と外の温度差により窓の内側にも露が浮いている。
フローリングの床の上にはトレイに乗せられた三つの湯気の立ったコーヒーカップ。そのうちひとつはミルクがたっぷり。
俺とハルは床の上に寝そべって一緒に雑誌を眺めていた。ムツミはひとりソファに腰掛けて文庫を読んでいる。
「何読んでるんだ?」
俺の問いかけにムツミはページから顔を上げずに答える。
「んー? 団鬼六」
「読むなよそんなの……」
ハルが顔を上げて興味津々といった面持ちで、
「どんなお話?」
「いや、お前は知らなくていいから」
「?」
あまり得心がいっていない様子だったが無視する。
窓の外から聞こえる雨音。それはまるでピアノの調べのようで。
「……雨、やまないな。また強くなってきたみたいだ」
「そーだねー」
ハルもつまらなそうに相づちを打つ。
ここしばらく雨は毎日降ったりやんだりを繰り返していて、外出するときは傘を手放せないでいた。
「今日いっぱいこんな天気みたいよ。矢野さんがそう云ってた」
ムツミが顔がいいと主婦層に評判の気象予報士の名前を挙げる。
「ふーん……」
季節の変わり目に降る雨はどこか寂しい。前の季節への未練を残しながらも、雨は確実に次の季節へと景色を塗りかえていく。
それはどこまでも慈悲深く、無体で、母のそれにも似た、残酷。
はるか大昔地球に初めて降った雨もこんな感じだったのだろうか。
まるで世界を作りかえようとするかのように。季節はゆっくりと、でも確実に冬へと傾いていく。
昨年の春、大学進学のために郷里から上京してきた俺にとって、これがこの土地でむかえる二度目の冬。
郷里ではもう初雪が降ったという。あと一月もすればこの雨も雪に変わったりするのだろう。
俺は雨音を遠くに聞きながらふと呟いていた。
「……そーいえばあのときも雨だったよな」
それはもう一年近く前の出来事。
「なにがー?」
「お前と俺がはじめて会った日のことだよ」
だがハルは小首を傾げると、
「……そうだったっけ?」
「忘れるなよ……」
「あんたたちの馴れ初めねぇ……」
ムツミも文庫から顔を上げて話に加わってくる。
「いかがわしすぎて想像できないわ」
「失敬なやつだな」
そう云いながら俺はあの雨の日のことに思いを巡らせていた――。
§ § §
街並みが遠く、霞んで見える。モノトーンで統一された灰色の街。枯れた木々と風に揺れる落ち葉が寒空を思わせる。
冬の顔は冷たい雨。街路に落ちる雫が舗装されたアスファルトを叩く。
駅のひさしの下では傘を忘れたサラリーマンや学校帰りの学生たちが何人か雨やどりをしている。
俺のすぐ隣でも中学生ぐらいの少女がひとり凍える手を息で暖めながら雨をしのいでいた。
ついていないもので電車が駅に着いたとたん雨が降ってきた。
空から水滴が二、三滴落ちてきたかと思うと、次の瞬間には大粒の雨がばたばたと落ちてきて、みるみるうちに地面が黒く染まっていった。
そしてまるでそれを待っていたかのように街には色とりどりの傘の花が咲く。
俺と同じ電車に乗っていた見知らぬ人々がそれぞれ手に持っていた、あるいは鞄の中に入れていた傘を取り出すと俺の横を通り過ぎていった。
あいにく出がけに傘を忘れてしまった俺はため息をつきながら空を仰ぐ。時雨心地とでもいうのだろう、どんよりとした空から降る雨はしばらくやむ気配がなかった。
(……こりゃ、徹底抗戦しかないか)
観念した俺は懐に抱えた紙袋の中を漁った。中には先ほど中華街で買い込んでおいた中華まんが入っている。
取り出した湯気の立つ肉まんをほふほふと頬ばる。かぶりつくほどに中からは肉汁が溢れ出し、また筍のサクサクとした食感が快い。
(やっぱ肉まんはこうじゃないとなー)
俺は舌鼓を打ちつつ、あっという間に手の中の肉まんを平らげてしまう。
「さて次は……ん?」
ふと視線を感じた。
ちらりと流し目で見やると、傍らに立つ見知らぬ少女がじっとこちらを見つめていた。
中学生ぐらいだろう。どこか小動物を思わせるくりっとした大きな鳶色の瞳。小柄な身体。栗色の髪をショートにしたかわいらしい子だ。
はじめはたまたま視線がこちらを向いているだけかと思ったが、そうでもないらしい。少女の視線は揺らぐことなくずっとこちらを見上げている。
(何だこいつ……?)
女の子の注目を浴びるのは嫌いではなかったが、理由も分からず見つめられているのはあまり気持ちのいいものではない。
(とりあえず無視すっか。何のつもりかしんねーけど向こうもそのうち飽きるだろ)
俺は気がつかなかったふりをして視線を戻すと、湯気でしめった紙袋から新しい肉まんを取り出し、パラフィン紙を剥がしてかぶりつく。
「あ……」
鈴が鳴るような小さな呟き。
再度横を見れば、少女は相変わらずこちらを凝視していた。……にらまれていると云ってもいいかもしれない。
「何だお前」
とうとう俺は話しかけた。
「……」
無言。まるで俺の問いかけなど聞こえなかったかのように、少女は何も云わずただこちらを物欲しそうな顔で見つめている。
訝しがって視線の先を追うと、どうやら俺の右手にあるかじりかけの肉まんに注がれているらしい。
「欲しいのか? コレ」
俺は右手の肉まんをかかげてそう訊ねる。
少女はやおら逡巡した後、小さく頷く。
(……マジかよ……)
絶句する俺。まさかこうもあっさり肯定されるとは思わなかった。
そのまましばしふたりの間に重い沈黙が流れる。
少女はその間も視線をそらすことなくじっと何かを期待するような目でこちらを見つめている。
(……ていうかどっかの消費者金融のCM犬みたいな目で俺を見るな)
少しだけあの父親サラリーマンの気持ちが分かったような気がした。
俺は沈黙と視線に耐えかねて、はぁ、とひとつ大仰にため息をつくと、
「何がいい?」
「え?」
「種類。いろいろあんだけど、何がいい?」
「……何があるの?」
はじめてまともに口をきいた。甘えるような調子が混じったかわいらしい声だ。
「スタンダードに肉まん、あんまんだろ。やや変化球でカレーまん、ピザまん、チーズまん。ビーンボールとして苺あんまんとか」
少女はしばし悩んだ後、
「……肉まん」
俺はリクエストどおり袋から肉まんをひとつ取り出すと少女に手渡す。
「ほらよ」
「……ありがと」
少女は両手でおずおずと受け取る。
「紙まで食うなよ」
少女はこくんと頷いてパラフィン紙を剥がしてから湯気の立つ肉まんにかじりつく。
俺はその様子を眺めながら、
(……やっぱ犬だよなー……)
などと失礼なことを考えつつ、また一個中華まんを袋から取り出して口にする。
「う……」
口内に広がる異様な味に顔をしかめる。
「苺あんまんはハズレだったな……」
食いかけを袋の中に戻す。
「やはりココナッツまんにしておくべきだったか……ん?」
気づくと先ほどの少女が俺の服の裾を引いている。
「……もういっこちょうだい」
「おう。この際たんと食え。次は何がいい?」
「……ピザまん」
§ § §
「お、ようやくあがったな」
雲の切れ間から陽光が帯のように射し込む。大きさもまばらな水たまりが鏡のように空を映して銀色に輝く。
雨上がりの空は眩しい。俺は目を細めて空を仰ぐと、流れていく雲を見やった。街も日差しが乱反射してきらきらと輝いている。
雨やどりをしていた人々はようやくあがった雨に安堵しながら、それぞれ雨上がりの街へと歩き出す。
「そんじゃな」
俺も傍らの少女にそう云って歩き出そうとするが、少女は俺の裾をぎゅう、と掴んだまま放さない。
「何だ? 肉まんならもうないぞ」
そう云って紙袋をつぶしてみせる。
「……」
少女はうつむいたままぷるぷると首を振ると、そのまま何も云わずただ裾を握る手に力をこめる。
俺は少女のその様子に小さく、ふぅ、とため息をつくと、
「……しゃーねーなー」
そう、ひとりごちて苦笑する。どうやら随分と懐かれてしまったらしい。
「来な。何かおごってやるよ」
その言葉に少女の顔が花のようにほころぶ。
「――うん!」
ふたりで雨上がりの空の下並んで歩き出す。
(……つーかこれって野良犬に懐かれるパターンと一緒か?)
気まぐれで餌をやったらそのまま家までついてきてしまった、とかゆうアレ。
(……まー、いっか)
俺はポン、と傍らを歩く少女の頭に手をやる。
「ん?」
少女は「どうしたの?」とこちらを見上げてくる。やはりその仕草は犬っぽくて。
ふと思いついた俺はごそごそとポケットをあさると目当ての黒い布切れのようなものを取り出す。
「お前、ちょっとこれつけてみ?」
「なぁに? これー」
「ネコミミ」
――これがハルとの馴れ初め。
§ § §
「何思い出し笑いしてんのよ……気持ち悪い」
「なんかいいことあったのー?」
どうやら知らぬ間に頬がゆるんでいたらしい。訝しがるふたりを俺は笑いながら誤魔化す。
「うんにゃ。なんでもねーよ」
窓の外からはあいかわらず雨音の旋律がやむことなく聞こえてくる。だが、不思議ともうその音色に寂しさは感じなかった。
「――なあ、今夜三人でどっか夕飯食いにでも行かね?」
「わー、行くー」
俺の突然の提案にムツミは眉をしかめる。
「どうしたのよ急に。てゆうかなんでわざわざ雨の日に?」
「いいじゃん、たまには雨の日に出かけたって。な?」
「……変なやつ」