episode:-0.72
- The kingdom called an infancy -

 そのこぢんまりとしたお屋敷は、幼かった私にとって世界そのものだった。

 古びた鉄のご門からつづく御影石の石畳。
 玄関のドアは重たげな木でできていて、蹄鉄の形のノッカーがついている。
 庭師のブッシュが丹念に手入れをしたお庭には、朝霧とともに薔薇の香りが立ちこめ。
 乳母のカヌレはその薔薇でジャムを作ってくれる。

 それが私をとりまく世界。幼年期という名の平和な王国。
 そしてその王国には、およそ子供心に考えられる、ありとあらゆるものがあった。

 挿絵のきれいなご本。
 白磁つきの置き時計。
 精緻なプッペンハウス。
 ピアノフォルテ。
 真鍮製の燭台にシルクのカーテン。
 銀食器。
 新しいカミツレ。
 優しいお父様とお母様。

 お母様はとてもおきれい。

 縦縞に小花模様のドレスはブロケード。
 細い胴に左右に膨らんだスカート。
 襟ぐりにレース。袖口にはアンガジャント。
 サテンの靴がよくお似合い。

 私もお母様みたいにきれいになれるかしら。
「お嬢様ならきっとなれますよ」
 だからじっとしていてくださいね、と侍女のロレーヌが私の髪を梳かしながらそう答える。
 銀のケースのなかには、きれいに折りたたまれた、色とりどりのリボンコレクション。
 どれも私のお気に入り。

 お爺様はちょっと苦手。いつも厳めしいお顔でいらっしゃるんですもの。
 それでも私がピアノを弾くと、とても穏やかな表情をしながら聴いてくださる。

 不意にゴホゴホと咳き込むお爺様。最近ちょっとお咳が多い。
 私がお背中を撫でてあげると、
「ありがとう。グラニテは優しいね」
 そう云って、そのゴツゴツとした大きな手で頭を撫でてくれた。

 お爺様のお葬式。薄曇りの空の下。
 みんな真っ黒なお服を着て影絵みたい。

「灰は灰に、塵は塵に」
 牧師様のお祈りと、地面を掘る音だけがその場に響く。

 向こうからとても身なりのいいお貴族様たちがやって来て、
「公爵様よ」
 と誰かが口にした。

 みんな左右に道をあけるようにして、帽子をとり頭を下げる。
 その間を無言で通り過ぎていくお貴族様。
 お父様とお母様に促され、私も一緒に頭を下げる。

 こっそり顔をあげると、目の前には通り過ぎていくお貴族様たちの姿。
 なぜか列の一番後ろにいた若いお貴族様のことが気になった。

 ひとりだけ、ここではない、どこか遠くを見ているような眼差し。
 面差しはまるで鷹のように怜悧で堂々としてらっしゃるのに。
 どこか捨てられた仔犬みたいに寂しそうな目をしたお貴族様。

 あなたはいったい誰ですか――。

§ § §

 そして私はまどろみからゆっくりと浮上する。

 いつの間にか眠ってしまっていたようだ。
 誰がかけてくれたのか、私の背中には薄い毛布がかけられている。
 突っ伏していたテーブルから顔をあげると、目の前にご主人様が穏やかな表情で立っていた。
 ご主人様はそっと見上げる私の頬に触れ、
「起こしてしまってすまなかったな。いい夢だったのだろう」
 優しい声でそう云う。

 ――あの頃。
 両親からは、ただ愛情を濯がれて。
 世界は、美しいもので満ち溢れていて。
 この穏やかで幸せな暮らしはいつまでも続くのだと。
 その意味すら知らず無邪気にそう信じて疑わなかったあの頃。

 私は沢山のものを失ってしまったけれど。
 でも、不思議とあの頃に戻りたいとは思わない。

 今なら分かる。幸せという言葉の意味。
 大切なひとの側にいられること。側にいたいと希うこと。

 私は頬に添えられた手に指を重ね、微笑みながら首を振ると、

「いいえ…。それは違います。
 私は今の方が…ずっと幸せなんですから」

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