episode:0.33
- PIANOFORTE -

 町外れにある小さな洋館。少女は、その館で働いていた。
 湖の畔に建てられた館はかなり年季の入ったものらしく、床や壁は古い木の色をしていたが、その表面はよく磨き込まれていてつるつるしている。

 今もまた、少女は教えられた通りに部屋の床をブラシで丁寧に磨いている。
 少女の仕事ぶりは傍目にも一生懸命なのだが、同時にどこかぎこちなさを感じさせた。
 仕事が丁寧なのはいいことなのだが、力を抜くべき場所とコツが分かっていない。そんな感じだ。
 その様子から、少女がまだ仕事に不慣れなのが明らかに見て取れた。

 実際、少女が今の主人に身請けされ、この屋敷にやって来たのはごく最近のことだった。
 以前のお屋敷に未練があるわけではないが、突然降ってわいた新しい環境に未だ馴染めずにいるのもまた確かだった。

 少女は時折額に浮かんだ汗を腕で拭いながら、咀嚼するように黙々と床を磨いていく。
 そうして時間はかかりながらも、一通り室内の掃除を終えた少女は、掃除道具と水の入った木桶を持って部屋を出る。
 歩くたびにギシギシと軋んだ音を立てる廊下。
 水で満たされた木桶は重い。少女は金具の取っ手を両手で持ち、なんとか持ち運ぶ。
 ふらふらとした足どりはいかにも頼りなく、桶が左右に揺れるたびに中の水がガボガボと音を立てる。

 不意に少女はその歩みを止めた。
 少女の視線の先。廊下の突き当たりにある部屋の扉が僅かに開いている。
 その部屋は少女の担当ではなく、また最初の日におこなわれた邸内案内でも通されなかったため、少女はこれまでその部屋に入ったことがなかった。
 果たして室内には何があるのか。
 少女はその場に木桶を置くと、件の扉の前に立ち、ノブに手をかける。
 軋んだ音を立てて開く扉。僅かな好奇心に後押しされて、少女は部屋の中を覗き込む。

 窓が少し開いている。そこから吹き込んだ風にあおられてカーテンがはたはたと揺れる。
 薄暗い室内。窓枠に四角く切りとられた日差し。
 その先に。差し込む陽光に照らされて浮かび上がるウォルナットの筐体。

 そこにあったのは一台のピアノフォルテだった。

§ § §

 廊下を歩いていたグラニテは、視線の先に妙な物を見つけて足を止めた。
 通りの真ん中に水の入った木桶と掃除道具が落ちている。
 それ自体は妙でもなんでもない。ただ、そこに当然あるべき持ち主の姿が見当たらない。
 一瞬、片づけ忘れかとも思ったが、それにしてはあまりに豪快すぎる忘れかただ。
 いずれにしてもここにこのまま置いておいていいものではない。
 グラニテは小首を傾げながらも、とりあえずそれらを仕舞ってこようと、木桶の取っ手に手をかけ、そこで。
 廊下の突き当たり。先ほど閉めたと思っていた部屋の扉が開いているのに気がついた。

 部屋の中を覗き込むと、果たしてそこには最近出来た後輩の小さな背中。
 少女――イシェルは、心ここにあらずといった様子で、部屋の中央に鎮座しているピアノを眺めている。後ろに立つグラニテの存在に気づいた様子もない。
 グラニテはそんな後輩の様子にそっと微笑みながら、
「ピアノが珍しい?」
 その背中に向かってそう尋ねた。
 イシェルは緩慢な動作で、一度だけチラリと後ろを振り返るも、また視線をピアノに戻し、
「……はじめて見ました」
 そう、呆けたままの声で云った。
 そしてまたじっとピアノを凝視していたが、ようやく放心していた心が戻ってきたのか、やおらはっと肩を震わせると、
「す、すみません仕事中に! すぐに掃除に戻りますので」
 そう云い、あわてて仕事に戻ろうとする。
 グラニテはその様子に苦笑しながら、
「いいわ。少し休憩しましょう」
 そう云って、ぶら下げていた木桶を床におろす。
 そしてその場の重苦しい雰囲気を払拭するかのように、
「ついでに何か弾きましょうか」
「……弾けるんですか?」
 驚いたように声をあげるイシェル。
「幼い頃、少しだけね」
 ピアノの前に立ち、椅子を引きながらそう答えるグラニテ。

 蓋を開けると、しつけのいい子供のようにきれいに並んでいる白鍵と黒鍵。
 譜面台には意匠を凝らした透かしが彫られている。

 こうしてピアノの前に立つとありありと胸裏に浮かんでくる。在りし日の光景。
 はじめてピアノに触れた日のこと。
 私の演奏にじっと耳を傾けてくれた今は亡きお爺様の姿。
 マチェドニアの本邸でおこなったご主人様とふたりだけの演奏会。
 どれもかけがえのない大切な思い出だ。

 グラニテは暫時過去へと飛んでいた意識を再び鍵盤に向ける。
 そういえばピアノを弾くのもひさしぶりだ。
 最近は忙しくて、なかなかそんな余裕もなかった。果たして最後に鍵盤に触れたのはいつのことだったか。
 時々は調律師を呼んでいたので調律は狂っていないと思うが、念のためグラニテはいくつか鍵を叩いてみる。
 それに連動してハンマー仕掛けが弦を打ち鳴らす。奏でられるeの音。正確な音階。
 どうやら大丈夫のようだ。

「リクエストはある?」
 グラニテは後ろを振り返ることなく尋ねる。
「……曲を知らないので……」
 うつむいて恥ずかしそうにそう答えるイシェル。
「そう? じゃあ――」
 グラニテはそっと鍵盤に指を走らせる。

 ありふれたエチュード。それこそグラニテにとっては何百何千回と繰り返し弾いてきた曲だ。
 ある時はゆっくりと。またある時はだんだん早く。
 棚板下のダンパーレバーを膝で操作しながら音を重ねていく。
 繊細で、柔らかな音色。水晶の珠を転がすようなそのピアノの響き。低音部でもひとつひとつの音が明瞭に聞こる。

 そうしてグラニテは知っている曲を次々に並べていく。
 澄んだ音色の中で、月は満ち欠けを繰り返し、雲雀は空高く歌い、鶫は梢で恋をする。
 イシェルはこれらの曲を当然知らなかったが、その音色の素晴らしさに「わぁ……」と感嘆の声をあげた。
 やがて曲は都会的に洗練されたものから次第に牧歌的なそれに変化していく。
 四季折々の姿を見せる野山。高いところから低いところへと滑り落ちていく河の流れ。そして――。

「――あ」
 不意に声をあげるイシェル。
「この曲知ってます!
 収穫祭のときに、大人の人たちが歌っているのを聞いたことがあります!」
 知っている曲が登場したのが嬉しいのか、頬を紅潮させ勢いこんで説明するイシェル。
 グラニテはその微笑ましい様子を肩越しに見つめながら一言、
「歌ってみて」
「え……?」
 何を云われたのか、一瞬分からない様子で声をあげるイシェル。
 やがてその言葉の意味を理解すると、
「そ、そんな。無理です。出来ませんっ」
 あわてた様子で頭を振る。
「無理ということはないでしょう――?」
「で、でも。上手く歌えるかどうかわからないし……。
 第一、人前で歌ったことなんて――」
「いいから」
 グラニテは言葉こそ優しいが、これ以上有無を云わせない口調できっぱりと云う。
「……」
 それ以上二の句を継げずに押し黙るイシェル。
 戸惑い。逡巡。不安。
 その表情にはありありと困惑の色が浮かんでいる。

 やがて観念したのか、胸の前で小さな拳をきゅっと握り、すうっと大きく息を吸うと――。

§ § §

 書斎ではジュノワーズが執務の真っ最中だった。
 マホガニー製の大きな執務机の上には書類の束がうずたかく積まれている。
 彼はその膨大な量の書類ひとつひとつに目を通し、ペンを走らせる。
「むう……」
 少し根を詰めすぎたようだ。
 机の上にペンを投げ出し、疲労した眼球をまぶたの上から押さえながら、椅子に深く背もたれ息を吐く。

 静かだった。
 茶褐色の壁に囲まれた室内には時計の針が時を刻む音以外何も聞こえない。
 ジュノワーズは、顔を覆った指の隙間から天井を眺めながら、しばし思索にふける。

 時々こうして自問する。果たして自分のやってきたことは正しかったのか、と。
 今の暮らしに不満があるわけではない。むしろ充実している。
 ただ、もっとうまいやり方があったのではないか、と。誰も傷つけずに済んだ別の道があったのではないか、と。
 時々そんな風に思わずにはいられなかった。

 ふと、最近身請けをした少女のことを考える。
 少女は、まだ新しい環境に馴染めず戸惑っているのだろう。うつむきがちで、滅多に笑った顔を見せようとしない。
 同僚(とは云ってもグラニテひとりしかいないのだが)との関係も未だぎこちなく、あまりうまくはいっていないようだ。
 何とかしたいとは思うが、これは時間をかけて解決していくしかない。

 そもそもどうして自分はあの時、あの少女を引き取ろうと考えたのか。
 彼女の境遇を哀れんだのか。
 前の主人からの仕打ちに同情したのか。
 それとも家族にすら必要とされなかった少女の姿に、かつての自分を重ねたのか。
 ……どれも正しいように思える。
 あるいはただ目に見える形で善行を積みたかっただけなのかもしれない。

 しかし、いずれにしてもそれは所詮自己満足に過ぎないのではないか。果たして少女は本当にそれを望んでいたのか?
 そもそもこんなことをしたところで、果たしてそれが何になるというのか。
 これで世の中から不幸な子供が消えてなくなるわけではないというのに。

 つくづく思う。この世の中は不条理で溢れている。
 仮にも上流階級に末席を置く自分がそんなことを考えること自体が不遜なのかもしれないが、一度気づいてしまった以上、もう目を塞いで何もかも忘れることは出来ない。
 だからと云って、果たして自分に何が出来るというのか。……いや、何も出来はしまい。
 いつかこの地上にも、人々の間に貧富の差も階級の差もなく、誰しもが笑って暮らせるようなそんな時代が来るのかもしれないが、その実現ためにはおそらくこれまで人類が積み重ねてきた以上の時間を必要とするだろう。

 ――もう、やめよう。
 ジュノワーズは出口のない迷路に陥りがちな思考を、頭を振ることで無理矢理打ち切った。
 そして天井を見上げたまま、重く、深いため息をつく。

(――ん?)
 ふと耳をすませばどこからかかすかに聞こえるピアノの旋律。
 グラニテが弾いているのだろうか。澄んだ音色が静かな室内に遠く近く響き渡る。
 そして、やがて聞こえるのはそれだけではないこと気づく。
 そっとピアノの音色に寄り添うようにして聞こえる、これは――。

「……歌?」

 それははじめて耳にする少女の歌う唄。
 母親の背中に隠れたまま、それでもおずおずと照れた顔を覗かせるように。

 今年の豊かな恵みを大地に感謝して。また来年の実りを希って。
 少女は豊穣の女神の名を呼ぶ。

 素朴なメロディー。どこまでも純粋で、飾り気がないが故に、もっとも人の心を打つ。優しい歌声。
 それは少女の無垢な笑顔にも似て。
 ジュノワーズは尽きることのない音の連なりをたぐり寄せるにしてじっと聞き入る。

 ――大丈夫だ。
 ふと彼は脈絡もなくそう思った。

 自分のしたことは間違っていなかった。
 例えこれまでどれほどの間違いを犯し、どれほどの人を傷つけてきたとしても、あの時あの決断だけは正しかったと胸を張ってそう云える。
 少女のか細くも生命力に満ちた、若草のような歌声を前にそう思えた。

 口元が自然と弛むのを自覚する。
 ジュノワーズはその歌声を遠くに聞きながら、再び書面にペンを走らせた――。

原作者のぼやき

イシェルとグラニテのレベル差を埋めるべく書いた本作。
しかし結果としてグラニテもレベルが上がってしまいその差は縮まらず。
むしろ開いたかも;x

ていうかグラニテさん。
オールワークスそつなく完璧にこなし、主人の執務の補佐に加えて、
ピアノの演奏までできるスーパーメイド。まさに隙なし。

あとピアノ豆知識。
1783年にイギリスのジョン・ブロードウッドが発明するまで今のようなダンパーペダルはまだ無く、
それまでは棚板下のレバーをひざで操作するタイプのダンパーだったそうですが、
その当時の女の子がピアノの演奏中、ひざでレバーを操作している姿を想像して、
なんかちょっとえっちいなーとか思ってしまったボクはたぶん脳が腐ってます。

神櫛 庵 (from 黒姫)

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