episode:√14
- The elder is a house sitting -
そして私はいつものようにシルクのカーテンを引き、窓を大きく開け放つ。
窓から差し込む朝の光と小鳥の鳴く声。見上げればそこには晴れ渡った青空。
さわやかな薫風が初夏の香りを鼻腔に伝え、シルクのカーテンが波間を泳ぐ魚の尾のようにはたはたと揺れる。
こんな、気持ちのいい朝。
私は胸一杯に朝の清澄な空気を吸い込み、瞼を透過する目映い日射しに目を細めた。
いつもと変わらない、でもまた新しい一日の始まり。
(おはようございます、お嬢様。よい朝ですよ)
私は振り向きざまにベッドの上のお嬢様に朝を告げようとしてはたと気づく。
ベッドはまるで大理石のように冷たく凍り付き、シーツは最後に代えた時のまま皺一つない。
他の調度品にも白い布がかけられ、この部屋の主はもう随分と長いこと部屋を留守にしていることを如実に語っている。
はっと元の向きに向き直るが、窓の外の太陽は私の記憶にある場所よりもずっと高い位置にあった。
初夏の日射しが薄暗い室内をナイフで切り裂くように照らし出す。
私はいっぺんに体の力が抜けてしまい、へなへなとその場に崩れ落ちる。
お嬢様が時季外れのヴァカンスにお出かけになってもう随分と経つというのに、私は毎日のようにこんなことを繰り返している。
私は高い天井に向かって大きくため息をついた。
「はあ…駄目だなあ…」
最近の私はホント駄目だ。
同僚に「リース、あんた最近ボケたんじゃない?」なんて云われるぐらいに気が抜けてしまっている。
誰かに話しかけられてもうわのそらだったり、仕事で何度も同じようなポカをやらかしたり。
おかげでメイド長のミセス・カルディナールにも目をつけられる始末だ。昨日もねちねちとお小言を云われた。
原因は自分でも分かっているのだ。
「お嬢様、早く帰ってこないかなー…」
もう何度目になるか分からない呟きは、形を結ぶことなく宙に溶けては消えていった。
§ § §
「――ねえ、あの噂話聞いた?」
「噂って?」
「ほら、“お人形さん”の」
「ああ」
応接間の掃除中、私が例によってぼんやりとソファの汚れをブラシで払っている最中そんな声が聞こえた。
(――?)
見れば窓を磨きながら何人かの同僚がひそひそと噂話を始めている。
“人形”とは、まるで芸術家が丹誠こめて作り上げた芸術品のように整った顔立ちをさなっているのに、普段人前では殆ど感情を露わにすることなく、いつも能面のように無表情のお嬢様を揶揄して、使用人の間で密かに使われている隠語だった。
「時季外れのヴァカンスっていうことになってるけど、それはあくまで建前で、実のところは体のいい厄介者払いみたいよ」
「わあ、やっぱり?」
「じゃあ、“お人形さん”もう戻ってこないってこと?」
「しょうがないんじゃない? あれだけ派手にやらかしちゃ」
「旦那様も最近ピリピリしてるしね」
「でもまあ、正直ちょっとほっとしたかな。ネージュお嬢様ってちょっと気味悪いんだもん。笑わないし。
本当に人形みたい」
「うんうん。なまじお顔立ちが整ってる分、余計怖いよねー。いかにも作り物ぽくて」
「かわいげもないしね」
「そうそう!」
「奥様もこれでご安心なさるんじゃない?」
「そういえば“お人形”の母親のこと知ってる?」
「知らない」
「ずいぶん前に亡くなられたんだっけ?」
「私らここに来る前のことだしね」
「私ちょっと噂には聞いたことある。准男爵家の娘だったとか」
「へえ」
「お金に困ってて、娘売り飛ばしたも同然らしいよ」
「あちゃー。ありがち」
「それって誰に聞いた話?」
春はとうに過ぎたというのに、小雲雀たちは賑やかにもけたたましく囀っている。
きゃっきゃっと楽しそうに他人の噂話に興じる彼女らも、別にお嬢様に対して悪意を持っているわけではないのだろう。
(でもあなたたちはお嬢様がどんなにかわいらしいかを知らないんだから…!)
あの人たちは寝起きのぼんやりとしたお嬢様をしらない。
あの人たちはお兄様のことを嬉しそうに語るお嬢様をしらない。
あの人たちは恋心に胸を痛めるお嬢様をしらない。
それは私だけが知るお嬢様の姿。
噂話に夢中になっている彼女らの後ろ姿を、私がむ~と眉根を寄せてにらんでいると、
「――あなたたち」
不意に横合いからかけられた声に、誇張でもなんでもなく彼女たちは「わあ!」と三インチばかり飛び上がった。
「み…み、ミセス・カルディナール…」
いつの間にやってきたのか、そこにはメイド長のミセス・カルディナールの姿があった。
ミセス・カルディナールは一同を睥睨すると冷たく云い放つ。
「あなたたち、余計なおしゃべりをしている暇があったら手を動かしなさい。
――それとも
そう云ってギロリと睨め付ける。
「わ…」
「は、はいっ」
「すみませんっ」
射竦められたように動けなかった彼女らは、その言葉で金縛りが解けたかのように一斉に駆けだした。蜘蛛の子を散らすように慌てて各々の持ち場に戻っていく。
彼女らの背中を見送った後、ミセス・カルディナールはくるりとこちらを振り返ると、今度は私に矛先を向けた。
「あなたもです、リース。なんですかその気の抜けた表情は」
「ひゃっ。す、すみません」
危うくブラシを取り落としそうになりながら慌てて謝る。
ミセス・カルディナールは腰に手を当てた仕草で、柳眉をつり上げると、
「来週にはネージュお嬢様が戻られるというのに、いつまでもそんな顔な寝ぼけた顔をしているようではお付きを外しますよ」
(――え?)
「おじょうさま…が?」
「ええ、先程お嬢様より連絡が入りました。あと十日ほどで中央に到着されるそうです。ですから――」
お嬢様が帰ってくる。
ミセス・カルディナールはその後もくどくどとお小言を続けていたようだったが、もはや私の耳には入らなかった。
私の頭を占めていたのはただ一点。
(――お嬢様! お嬢様が帰ってくる!)
「聞いているのですかリース!」
「ふぁ、は、はいっ」
§ § §
鈍く、微かに軋んだ音を漏らして、深い飴色をたたえた扉が開いていく。
左右に押し開かれた重厚な扉の先には、光線を背にして浮かび上がる旅装をまとった小柄な人影。
それは夢にまで見た少女の姿。懐かしいその笑顔。
そして私はいつものようにお嬢様を迎えるのだ。
ただいま、リース。
おかえりなさい、お嬢様。